仙人掌

音楽成分多めですが徒然なるままに。

理論と屁理屈

このブログ、どこまでも自分が頭の中で音楽のことを考えるためのものであってそれ以上でもそれ以下でもありません。

多分音楽以外のことも時々思い出したように書くかもしれませんが、もともと長文を書くのが苦手というのもあって結局音楽のことばかりのブログになりそうです。

 

とても個人的な感情とか瞬間的な思考であればTwitterを使っているので、あんまり文章のしたためる必要がない、というか。いや、非公開なんですけどね。

 

例えばつい最近だとノートルダム大聖堂の火事の話とか、名探偵コナンの映画を見てきた話だとか。

うまくまとまった文章となればいいんですが、Twitterで発散した部分もあるので、ちょっと気持ちが収まっている状態です。文章の練習も含んでいるのでとりあえず書けよ、って話ではあるんですがね。

 

 

その曲を分かる、ってどういう状態なんでしょうね。

普段から一応音楽の理屈とされているものをこねくり回して、いろいろな曲のことを考えてみています。専門用語が多くなってしまっているの、反省しているんですがどうにもまだまだですね。もっとそういうのなしに分かりやすい文章が書けると良いのですが。

理論って本当に難しい立ち位置です。いろいろな記事で分析っぽいことをしてみていますが、そこらへんのことが分かったから、で?っていう話なんです。

それでも個人的にはああいうところを分かった上で聴くのが楽しいし、最早そういうことを様々に考えている状態が楽しいのです。

ただある意味、それは本当にその音楽と向き合っているのか、と言われると微妙でして、楽譜とにらめっこして音を聞いていない、って言われるとそれもそうだ、ってお話で。

 

まあそんなもやもやを抱えつつ、それでも理屈を通して見える世界だってあると思うのでそういうアプローチを続けていこうと思います。

「分かった」気になるくらいはいいでしょう。結局その後、また分からない部分が多く出てくるでしょうし。

そうやって調べて考えてその曲を暴いていって分かっていくからこそ、初めて聴くときに覚える感動の尊さを重く受け止められる、とも思っています。

 

どんなレパートリーの音楽でも、それとの距離が縮まれば、あいまいなまま聴いていた時にその音楽が持っていた神秘性が失われてしまう*1

 

聴く前の「初めて」には絶対に戻れない、だからこそ深くまで知ることで「初めて」の価値を再確認したいのかもしれません。

 

*1:R.L.クロッカー著,吉川文訳(2006)『グレゴリオ聖歌の世界』音楽之友社 より

グレゴリオ聖歌の世界

グレゴリオ聖歌の世界