こうもりワルツのオーケストレーション
「なんでワルツの表拍にわざわざトロンボーンを3本も重ねるのか?」
まあ普通のオーケストラ曲であればまずあり得ない楽器の使い方なんです、これ。特に演奏する側からしても音程もタイミングも合わせるのが難しいわ、頭打ちは低音域が常なので特に上吹きの1stからしたらやりにくいことこの上ないもの。
今回は喜歌劇「こうもり」のなかでも「こうもりワルツ」として有名なあの華やかなワルツについてです。
裏付けなんてなにもありませんが、実際に演奏をしてみての考察です。
序曲だけじゃなく実際の舞台で演奏する機会にも恵まれたのですが、その練習中にパート内で話した事案でありまして。
Die Fledermaus / The Bat: Operetta Op. 362 (Edition Eulenbeurg)
- 作者: Johann Strauss,Carl Haffner,Richard Genee,Christopher Hassall,Hans Swarowsky
- 出版社/メーカー: Schott & Co Ltd
- 発売日: 1986/12/01
- メディア: ペーパーバック
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問題のこうもりワルツの一部分。
楽譜にはありませんが、前の箇所から継続して「a3」指定。厚くってしょうがない。
ちなみに、第2幕の劇中でこうもりワルツが流れる箇所ですが、
こちらは「a2」指定で2ndと3rdしか頭打ちをやっておりません。
どうしてこのような違いが現れ、ちょっとやりづらい配置にしたのか。
最初はJ.シュトラウスが当時でいうポピュラー音楽作曲家という立ち位置にいたからかと考えていました。
つまり、社交場に出かけては数々の舞踏曲を作曲し、自前のオーケストラで演奏する。基本的には機会音楽ともいえるような作品ですから、その場にいる楽器(そのタイミングで参加することのできた楽器)で最低限の形を提供することが必須です。
特に、J.シュトラウスのワルツやポルカでその揺れを激しく食っているのがトロンボーンとテューバです。編成になかったり、トロンボーンは1本しか指定されていなかったりとありますが、曲想によって厳密に考えているとはあまり思えない使い分けです。
とすると、どこかのパートがいなくても、低音の頭打ちがはっきり聞こえるようにトロンボーン3本を重ねて演奏させるのは、「実務的な面で」合理的ともいえるでしょう。
厚くってしょうがない、なんて書きましたが、当時の楽器事情を鑑みるにまだまだ現代ほどには管が太くなかったでしょうし、ヴァルブ・トロンボーンの全盛期ですから、スライドほどには音の抜けも良くなかったでしょう。
しかし、実際にピット内で演奏をしてみると、上記以外にももっと「実務的な」理由があるように感じました。
ピット内って「狭い」んです。もちろん劇場によってまちまちですが、およそオーケストラみたいな大人数が入る場所なのか、って思うほど(笑)
そして、その構造の性質上、オーケストラの音の抜けは悪くなります。当然ですね。楽器というのはある種、音の増幅装置ですから、オーケストラと歌が同じ位置にいたら人間一人の声に勝ち目などありません。それを抑制させながら、どちらにも指揮者の指示が通り、響きのバランスも取れる、というところで考えられた構造です。
中でも金管楽器はピットの奥の方にいることが多いです。バイロイト歌劇場ほど極端なものは少ないでしょうが、普段は、舞台後方にある雛壇の上から、他の楽器よりも一段高いところで、朝顔を正面に向けながら出す音に比べてしまったらかなり聞こえ辛くなります。金管楽器が?と思われるでしょうが、この人間の壁、構造の壁って実はかなり大きいのです。
今回も普段の練習ではバランスを考えて少し抑え目でちょうどいいくらい(ピットの広さに合わせて弦楽器の人数も制限されているのでなおさら)だった箇所が、ステリハでは「もっと出して」と指示されたり、ということが多かったように思います。
こう考えると、このオーケストレーションは合理的に見えてきます。
R.シュトラウスの「ばらの騎士」のような大管弦楽が使えれば話は別です。
ファゴット3本、テューバ、ティンパニ、ハープ2台、コントラバスと豪勢なオーケストレーションで円舞曲の頭打ちをしています。
こちらの初演場所は現ゼンパー・オーパーですから格が違います。
そもそもオペレッタというのは(芸術観的な)品格としてオペラよりも下に見られがちです。当時も、後にマーラーによってウィーン宮廷歌劇場で採り上げられるまでは、トップクラスの劇場では披露されない演目であり、とすると作曲時点から地方歌劇場を見据えたものとなります。ピットの広さはもちろん設備等について比べるべくもないでしょうから、そういった現実的な問題がオーケストレーションにも表れているように思います。
序曲と劇中の本数が違うことについては、まあ書き違えたという可能性が高そうだな~、っていう考えを胸に秘めつつ、理由としてはオルロフスキーと合唱の存在かと思います。
オペラ付き物のバレエシーンが終わり、オルロフスキー殿下の掛け声でこのワルツは始まります。ワルツではありますが、いわゆる舞踏用の曲ではなくこのパーティの雰囲気を模している曲、とでも言えましょう(6時の鐘の後に、見事な主題展開を見せていることからも分かります)。
後に大合唱でこのメロディを歌うことになりますが、最初の部分はまだオルロフスキーと合唱は語りの部分です。
Genug damit, genug!Diese Tänzer mögen ruhn.
Bei rauschender Weise im fröhlichen Kreise
Lasset uns selbst hier tanzen nun!
(もう結構だ!ダンサーたちは休んでいいぞ。
にぎやかな調べ、陽気に輪となって
今度は僕たちが踊る番だ!)
裏ではすでに弦楽器ほかによるにぎやかなワルツが鳴っていますから、このセリフを聴かせるためにトロンボーンの本数を減らしたのではないでしょうか?
…という苦しい考察をしてみました。いや、ホルンやトランペットに微妙な音違いがあっても楽器が減ってるのってトロンボーンだけなんですよね。正直、そこまで効果あるかっていうと微妙なんですよ。
書き違えたのか、写譜屋さんが読み間違えたのか、真相は分かりませんがシュトラウスさんが意地悪だったから、とかではないはず…あとは序曲と2幕の作曲期間に間が開いてしまった*1から、とか?(笑)
J.シュトラウスは当代きっての売れっ子作曲家であり、ある意味では一番「現場感覚」が備わっていた作曲家の一人でしょう。
このような省エネ的オーケストレーションでも、当時の人からしてみれば理想という意味での響きがどうの、というよりも一番現実の社交場ワルツらしい響きとして捉えられていたのかもしれませんね。
聴衆は別に芸術的な完璧さなんて求めちゃいません。特にこういう吉本新喜劇よろしくなドタバタコメディにはなおのこと。
それでも親友ブラームスはもちろん、ワーグナーほか様々な作曲家から絶賛されていたところをみると、その音楽の魅力は計り知れません。喜歌劇「こうもり」、バカにしちゃいけませんよ、ほんと。